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KVC Tokyo 英語塾

                               




























本コラム執筆のための参考サイト:

https://ja.wikipedia.org/wiki/主語













































文京学院大学外国語学部文京学院短期大学紀要 第 8
記号論:意味に焦点を当てて
梶 原 秀 夫
https://www.u-bunkyo.ac.jp/center/library/image/fsell2008_075-095.pdf

pp.76-77
「日本語の分析の際に必ず問題となるのは助詞の「は」と「が」の説明である。前者は副助詞で後者は格助詞と分析されていて、特に三上(1960)の「象は鼻が長い」という文の分析が有名である。三上5)は「象」は副助詞の「は」が付いているから主語ではなく「主題」(=「話題」)で、主語は主格を表す格助詞の「が」がついている「鼻」であると分析している。筆者はこれは完全に間違った分析であると主張している一人である。従来の学校文法でも「は」は副助詞で「が」は格助詞であると説明されている。このような正鵠を射ていない分析はどこに起因しているかと言うと上記で述べているように「文とは何か」の統一した定義が存在しないからである。「象は鼻が長い」の文は誰が考えても「象」が主語であるはずなのにまったくおかしな分析をする文法家が世の中にはかなり多く存在している。その点、文とはある対象物の状態(静態・動態)を説明する際に必要な文法構造で、主部と述部から成り立っている」という統一した定義が存在すれば、この文は「象」が対象物であり、しかもその対象物の状態を説明しているので必然的に「象」が主語であると断言できる。」

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とあります。ある特定の対象物を頭に思い浮かべ、それについての説明を加える、のが文の正体、本質であるから、その対象物を主語と言えば良い、との明快な指摘です。動作の主体、話題の主題の区別など必要なく主語と呼べば良いとの梶原氏の主張です。

これは逆に、「いちいち」動作主なる主語を意識する言語体系の文法、考え方に、我々日本人が知らず毒されている可能性に気づかせて呉れる秀逸な指摘の様に塾長は思います。


<太郎には>(主語) <才能がある> (連語述語)
 この説に近いように思います。<太郎には>は文の主部であり、<才能がある>は太郎について説明を加える叙述であり、述部ですね。



































 塾長のコラム 2019年6月10日  『主語の概念 @ 概論』








主語の概念 @ 概論


2019年6月10日

皆様、KVC Tokyo 英語塾 塾長 藤野 健です。

 ラテン語の動詞には厳格な格変化があり、活用語尾で主語、主体が誰、何であるのかが判別できます。従って主語を表す言葉 (人称代名詞)を別添えする必要性はありません。しかし俗ラテン語であるフランス語は動詞以外に更に独立した、<私、お前、あなた、あなたたち、彼、彼女、彼ら> などの主語を文の先頭に添えます。これは活用語尾を旧仮名遣いの様に遺しては居ても、発音が同じになる語がある為、耳で聞いた場合に区別が出来ず、別個の主語が必要とされるからなのでしょう。更には英語からの色濃い影響もあるのかもしれません。同じ俗ラテン語であるスペイン語やイタリア語では人称代名詞は必要とはされません。英語の場合は、動詞は基本的に、動詞単独では、主語が 私、あなた、彼、彼らのどれなのか完全に区別することは出来ず、原則としてそれら主語を別個に立てざるを得ません。

 主語を別添えするか、或いは動詞の活用語尾に誰が動作主体であるのかを含んでいて主語の別添えを要しない、このいずれの場合にせよ、<誰が>と言う事を重要視する言語体系であることに違いはありません。ゲルマン語系或いはラテン語系の言語は基本はこの性格を持っています。








 日本語の場合は、未然形、連用形などの活用系での違いはありますが、動作主体の違いに拠る動詞の格変化もなく、それ以外には現在形と過去形の変化ぐらいでしょうか。またしばしば<主語>は省略されます。付帯状況から判断して呉れ、との非言語表現型の言語とも言うべきでしょうか。これが為に日本語は曖昧だと主張する者も居ますが、日本人の当人同士では意思疎通がまともに成立しており、動詞の格変化や明確な主語を併記する言語体系とは異なる言語なのだと考えればそれで済む様にも塾長は思います。或る意味、相当に高度化された、一定の合理性を保有する言語体系と言っても良い様に塾長は感じます。仮に日本語の文章を読んで意味不明であれば、それは書き手の教養水準が単に反映されているだけであって、それを日本語の構造の所為にしてはいけないだろうと思います。自分の伝えたいことが第三者に誤解無きよう明確に届くか、これを常に意識して日本語の文章がモノされているかどうかで、相手の知的水準が直ちに分かる便利な言語でもあります。何となれば、頭に思いついたままにダラダラ記述しても、文章としての成立が許されてしまうのが日本語だからです。

 昔の日本語、即ち古文に於いても単語が分からない上に主語も判らず、頓珍漢な的外れな解釈を行いテストで点が取れないとの方も多かろうと思います (塾長もそうでした)。しかし古文の場合は、敬語表現から主語が判別できる場合も多く、1文 1文 を間違いなく解釈し、筋書きを追うことで着実な理解に繋がります。余談となりますが、古文の単語を覚えるのは英単語を覚えるのと同じで、一定のセット数を経文の様に<つべこべ言わずに頭に叩き込む>以外に道はありません。








https://ja.wikipedia.org/wiki/主語

このサイトを見ると日本の主語の定義に関してはまだ定見は無い様ですね。

主語優勢・主題優勢: 

 主語 (動作主) が語順や名詞の形などで (主格として) 明示される言語を主語優勢言語といい、一方、主題が明示される言語を主題優勢言語という。日本語も主題優勢言語であるとされる。 日本語では、主題も動作主主語もそれぞれ 「は」 「が」 で明示され、またどちらも文の必須要素ではないが、「は」のつく名詞は統語論上特別な地位にある。」 とあります。

「は」  でこれから話をしようとするテーマを提示し

「が」  で動作の主体を示す、訳ですね。


 例文として、「太郎には 才能がある。」の主語は何かの議論が紹介されています。

<太郎には>(主題) <才能>(主語) がある。

<太郎には>(主語) <才能がある> (連語述語)。

<太郎には>(主題) <才能が> (主格補語) ある。


 の3通りの解釈が紹介されていますが、文の意味としては 「才能に関しては太郎は持っている、太郎は才能を持っている」、との解釈 (=脳内日本語−日本語翻訳) も不可能ではなく、その場合「才能」が文の主題提示に相当しますね。日本語としては「は」と「が」で主題と主体の区別は一応出来ても、どうも意味概念上は完全な線引は出来ない様に思います。

 太郎には才能はある、の表現も可能で、

「どうだね、太郎君のピアノの演奏は?」「そうですね、僕は彼は才能はあると思います」の会話の遣り取りも可能ですが、「太郎君」「ピアノ演奏の才能」の2つの話題が提示されたことに対し、受け手は「彼は」「才能は」のテーマ、主題で返答しているシーンです。「才能は彼はあると思います」と答えても良い訳で、「は」が付いても主題でもあり主体でもあり得ます。